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(2015.08.12修正)

 論を進めるに当って最初に、天武天皇(『皇統譜』に拠れば第40代。在位:673年〜686年)が「天皇」を称した最初の大王(おおきみ)だったとするのが通説化しています。本論もそれに従い、以下、天智天皇以前の天皇は大王、天武天皇以降を天皇と記すことを断っておきます。
 また大王の幼名や子女に付けられる尊称、皇子は特に断りがない場合は「みこ」、皇女は「ひめみこ」と読むことにしておきます。

 『紀』によれば、天武天皇(大海人皇子、おおあまのみこ、おおしあまのみこ)は天智(てんじ)大王(中大兄皇子、なかのおおえのみこ。在位:662年〜672年)の実弟です。二人の父は田村皇子(のちの舒明(じょめい)大王(在位:629年〜641年)で、母は宝(たから)皇女、のちの皇極(こうぎょく)大王(在位:642年〜645年)、重祚(ちょうそ)した斉明(さいめい)大王(在位:655年〜661年)であり、妹に間人(はしひと)皇女がいました。
 天智大王(葛城皇子、かつらぎのみこ)の年齢については、「舒明紀」に大王崩御の年(641年)に「東宮(皇太子)開別皇子(ひらけわかすのみこ)が十六歳で誄(しのびごと)(亡き大王をしのんで霊にことばを述べること)をした」と記されていますから、推古三十四年(626年)生まれになります。また天智大王の崩御は671年ですから、享年46歳だったことがわかります。
 ところが天智大王のあとを継いだ天武天皇は、崩御した年が朱鳥(あかみとり)元年(686年)九月九日と記されていますが、「生年は不明」です。従って「享年も不明」です。天智大王が崩じるまで表舞台に立つことがなかったように扱われていて、それまでの活動もほとんど不明です。
 天武天皇は、神話のために創造された可能性がない天皇です。わが国の古代における最大の内乱「壬申の乱」(じんしんのらん)で皇位を奪い取り、『紀』だと推定される「国史」の編纂と校定を命じました。また最初に「天皇」の称号を使用して「富本銭」(ふほんせん)という通貨の使用を図ったとされる、極めて重要な人物です。しかし生年が不明ですから、何をしたかが記されていても、何歳のときだったのかがわからないのです。
 これが、『紀』の記述に対する謎の発端です。

 『紀』に記された大王年齢は、「推古紀」(巻第二十二)以前については疑問点が多いのですが、「舒明紀」(巻第二十三)以降の信憑性は高い、とされています。そして舒明帝・皇極女帝・孝徳帝(在位:645年〜654年)・斉明女帝・天智帝の年齢は推定されるのに対して、天智帝を継いだ天武帝の年齢が不明です。
 天武天皇の年齢に係わる記述が一切ないのは、天皇の存命中は周知のことだったかもしれませんが、後代に伝える国書としては不備であることが明らかです。ですから、国史編纂の「ある理由」から、天武天皇が直接それを指示した可能性も考えられなくはありませんが、その可能性も含めて、故意に年齢が書かれなかったかあるいは消されたのではないか、と憶測を深めることになります。
 天武天皇の生年が『紀』に記されていないことは古くから知られていましたから、皇室関係者を含めて多くの人が解釈を試みてきました。そして更に戦後になると、『紀』で実弟とされていながら兄と記される天智大王の方が実際は年下だったのではないか、という説が出されるようになりました。
 『紀』よりずっと後代になりますが、歴代天皇の年齢を考証した古書は十書近く残っており、その大半がなぜか天武天皇崩年65歳説を採っています。崩年の西暦686年から逆算すると、生年は622年(推古三十年)になります。
 『帝王系図』(鎌倉時代)、『一代要記』(鎌倉時代)、また『皇年代略記』(鎌倉時代以降)、南北朝合体前の北朝側の天皇、後小松天皇の勅命によって編纂された系図を元にして作られ、それ以降皇室系図の権威書とされてきた『本朝皇胤紹運録』(ほんちょうこういんじょううんろく)(以下『紹運録』とします)、さらに江戸時代まで下がりますが『首註陵墓一隅抄』などが、65歳説になります。
 但し、『帝王系図』は「天武天皇推古卅一年誕生(623年)、崩六十五」と明記していますから、崩年が持統元年(689年)になり、「推古卅一年誕生、朱鳥元年九月九日崩、年六十五」とする『紹運録』でも1年の誤差が生じます。しかしそれらも65歳説とみなせます。
 無論、同じ書物で兄弟の順を逆にしているわけではありません。『一代要記』は天智帝の崩年を53歳、『紹運録』は58歳とすることで、天智帝は天武帝より年上になります。
 しかし、南北朝時代に吉野に拠った南朝の重臣、北畠親房(きたばたけちかふさ)が記した『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)(以下『正統記』とします)は、天武帝の生年を614年(推古二十二年)、享年を73歳と考えて、天智帝より年上になるのを防ぐために二人を同年生まれにしています。
 これらを通してみると、どの書でも天武帝は天智帝と同年生まれまたは年下になっています。しかし、『正統記』を除いて、それらの『紀』の存在を熟知していたはずの研究者たちの解釈は、天武天皇が推古三十一年生まれあるいは六十五歳崩御という、無視できない古書なり言い伝えがあったために、それに基いて記したのではないか、と思われるのです。
 そしてそれらの書の天武天皇の推定生年と『紀』に記されている崩御の年から計算すると、天武天皇が天智大王より3歳から12歳も年上にならざるを得ません。このために、『紀』の度重なる写本時に原本にあった五十六歳を六十五歳に書き違えて流布した、とする権威の穏便な説も出されましたが、現在の大勢は生年不明で収めるということになっています。
 ところが、『続群書類従』第29輯下 雑下部版に収められた、興福寺に伝わる『興福寺略年代記』だけでは、底本では「天智は舒明太子、天武は舒明二子」とされていながら、天武天皇が622年生まれ(享年65歳)、天智天皇が626年生まれ(異本では614年)生まれになります。
 興福寺の起源は、山城国山科郷(京都市山科区)陶原(すえはら)の里にあった藤原鎌足の別宅の仏殿を、妻の鏡姫王が山階寺(やましなでら)とし、飛鳥に移されて厩坂寺(うまやさかでら)となり、それを藤原不比等が平城京に移転したことにあります。つまり藤原家の私寺だったのを、国費で拡張整備して大寺になった訳です。
 天武天皇の出自は、同時代を生きた鎌足も鏡姫王も知っていたはずで、その二人に直結する『興福寺略年代記』の記述の出所が何にあったのか、知りたいものです。

 無論『紀』の記事で信用すべきは信用しなければならないし、事実が実際に証明された記事もあります。しかし、本論でもいくつかの考証を行いますが、天武天皇の年齢不明も含めて、『紀』には明らかに多くの歪曲や改竄(かいざん)があります。抹消もその意図的な手口の一つですが、その背後に隠された意思を探る必要があります。
 これらの経緯から、本論では、大王年号では生年を逆算するときに間違いやすいこと、また生年と享年ではどちらが記憶と記録に残りやすいかという心理的な要素を勘案して、
天武天皇は推古三十年(622年)生まれだった
 との立場に立って、推理を進めて行くことにします。
 尚、下に掲げた系図では、舒明大王と斉明大王の子、また中大兄皇子の弟とされる天武天皇を示す線を破線にしてあります。本論がそれを考証・論証するためにあり、そして最終的に導き出した系図が『紀』の系図と異なるからです。

 それでは、『正統記』の73歳説を根拠なしと言えるのでしょうか?
 ここで注目すべきが、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)です。蘇我馬子(そがのうまこ)の娘の法提郎女(ほてのいらつめ)と舒明天皇との間に生まれた、蘇我氏直系の皇子です。
 この皇子は大王にならなかったので生没年不詳です。しかし、『紀』は特異な点で、古人皇子と大海人皇子(天武天皇)を結び付けています。
 『紀』は明記していませんが、古人皇子は蘇我氏の本宗家(馬子の子の蝦夷とその嫡男の入鹿)に後押しされて、舒明期と皇極期を通じての東宮(後代の皇太子)であり、皇極大王の跡を継ぐべき唯一の大王候補でした。しかし645年の「乙巳の変」(いっしのへん)(いわゆる「大化の改新」を生むきっかけになった事件)で宗家が滅んで、孤立しました。
 わが国の古代史で特筆されるそのクーデター事件で、皇極帝が突如退位したあと、古人皇子は「皇位を継ぐように言われながら辞退して、宮の仏殿の庭で出家して、仏道修行のために吉野に隠遁した」と記されています。皇位を継ぐように言われたということは、東宮だったということです。
 「孝徳紀」一書に、古人皇子が古人太子(ふるひとのひつぎのみこと)とも吉野太子とも呼ばれていたことが記されており、これも古人皇子がその時までの(皇)太子だったことを示しています。のちに聖徳太子と美称されることになった厩戸皇子(うまやとのみこ)も、わが国初代の女帝推古の後継大王になるはずの太子でした。
[系図1] 古人大兄皇子
 しかし従兄の入鹿が暗殺されて身の危険を察知した古人皇子が身を引き、藤原鎌足の工作で皇極帝の跡を弟の軽皇子(かるのみこ)が継いで孝徳大王になり、その時に中大兄皇子(葛城皇子)が東宮に立てられたのです。古人皇子も中大兄皇子も同じ大王の子とはいえ、中大兄皇子が非蘇我系の敏達(びたつ)大王につながるのに対して、古人皇子が蘇我氏の中心になる皇子だったからです。

 なお、「大兄」の名称は「長子」の意味で用いられた普通名詞的な称号で、王族においては皇子中の長子を指した語ですから、当然皇位継承権を持つ最有力者だったのです。だから中大兄皇子はのちの天智大王を指す固有名詞ではなく、舒明大王の大兄は古人皇子で、中大兄が葛城皇子だったことになります。
 田村皇子(舒明大王)や軽皇子(孝徳大王)のように、大兄の称号なしに王位に就いた皇子もいますが、古人皇子は単に大兄とも記されますので、舒明大王の皇太子だったのです。古人皇子にはまた、古人大市(ふるひとのおおち)皇子の名もあり、これは誕生地か養育された地名に拠ったものと理解されます。大市は三輪山の麓、卑弥呼の墓とも言われる箸墓(はしはか)古墳付近です。
 ところが「舒明紀」最後の大王崩御の記事で、古人皇子が東宮だったことを伏せて、突然中大兄皇子が東宮として登場します。天智大王を正当化する最初の記述です。
 ところが舒明大王は、蘇我蝦夷が同族の山背大兄王(やましろのおおえのみこ。厩戸皇子の子)を排除してまで立てた大王でした。舒明大王の皇后に宝皇女が指名された背景にも蝦夷の指導が推定されますが、いずれにしても当時の状況からして、蝦夷の甥で舒明大王の嫡男、古人皇子を差し置いて中大兄皇子がいつの間にか東宮になっていたことはあり得ないことです。もしもそのような重大な事実があったとしたら、中大兄皇子>天智天皇に極めて好意的に書かれている『紀』が、それを記さなかったはずがないからです。『紀』の記述に従えば、舒明大王の東宮だった次男の中大兄皇子が皇極期に退位して、孝徳期で東宮に復活したことになります。これも考えられない展開だと言わざるを得ません。
 従って、舒明紀の最後尾に記された「東宮開別皇子」の記事は後世の加筆によるまちがいではなく、大王崩御の記事のあとの余白部分に書き加えられた後世の改竄だった、とみなさざるを得ないのです。
 開別皇子という名前は、明らかに「乙巳の変」を意識して付けられた天命開別天皇という諡号を元に後代に考案された名称だと考えられますので、天智大王の生存時にそういった名前があったとは考えられません。しかも中大兄皇子の呼称は古人大兄皇子が廃位させられてから付けられたと考えられますから、それ以前は葛城皇子、あるいは単に「中皇子」(なかつみこ。なかのみこ)だったものと思われます。
 中大兄皇子の名称に関して、「継体紀」に参考になる記載があります。
 継体大王に兎(うさぎ)皇子という子がいて、その少(おとと。弟)が「中皇子」と呼ばれました。ここから「中」は、兄弟では年少者の方に付けられる識別文字だったと理解されます。兎皇子と中皇子は同父母の兄弟でしたが、中大兄皇子は同じ命名法に拠って、その兄に異母の古人大兄皇子がいたこと示していると考えられるのです。
 但し、天智大王の実名が「開」(ひらく)だったと思われるふしもあるのですが、ここでは触れないでおきます。

 そして、天智大王の東宮になった大海人皇子は、古人皇子と同様の状況下で同様の方法で、王位を辞退しているのです。
 古人皇子と大海人皇子の大きな違いは、古人皇子が「乙巳の変」の三カ月後に、中大兄皇子に謀反の疑いをかけられて討たれたのに対して、大海人皇子が天智大王崩御の六カ月後に「壬申の乱」を起こして、成功したことです。
 蘇我宗家の滅亡に直結する古代史の大事件、後述する「山背大兄皇子殺害事件」でも「乙巳の変」でも古人皇子は登場しますが、大海人皇子の姿はありません。そして『紀』の一書では、古人皇子は斬られたとも自ら縊(くび)れた(首をくくった)ともされていますが、本文に死んだと書かれていません。その八年後に初めて大海人皇子(と思われる人物)が、中大兄皇子の弟として登場します。
 『紀』は、古人皇子と大海人皇子の二人だけに共通するキーワードを用いています。----「佛道修行」です。
 このことばは、『紀』では二人に対してだけしか使われておらず、「仏教と神道(しんとう)」あるいは「仏法(内教)と外道(外教)」を組み合わせた語です。仏教の求道を意味したものではありません。『紀』で普通に仏教を指す場合には、「佛法」と書き分けられているからです。
 また、中大兄皇子は大王になって、古人皇子の女(むすめ)倭姫王(やまとのおおきみ)を皇后にしました。そして大海人皇子は吉野に隠遁する前に、病床の大王に対して「倭姫王を次の大王にされたい」と、奇妙な要求を出しています。
 つまり、『紀』は特別の時と場所とことばを選んで、天武天皇が古人皇子に近い人物だったと臭わせているのです。それを根拠に、いまだに古人皇子と天武天皇を同一人物とする巷説が出されるくらいです。従って、『正統記』は『紀』の記述トリックに引っかかって、「不明な天武天皇の前半生に古人皇子を継ぎ足して、天武天皇享年75歳説にした」と推測して、まずまちがいありません。
 ところが天武天武を推古二十二年(614年)生まれにすると、推古三十四年生と推定される天智大王より、12歳も年上になってしまいます。そこで同書では同年生まれにしたものと考えられるのです。
 しかし、同年生まれの兄弟は、同腹なら双子で、双子でなければ異母にしかならないのですが、それについては何も説明していません。説明できなかったからでしょう。
 ところが『正統記』の考証は、その意図とは異なったところで、重要なヒントを与えてくれたのです。
古人大兄皇子は推古二十二年(614年)生まれだった
と考えていた、と推定されることです。
 年代的に古人皇子と天武天皇を同一人物とみなすことはできません。しかし近年の研究で、舒明大王と法提郎女の婚姻を612年頃とする説が出されています。また古人皇子を614年生まれとみなして、関連する人物の年齢想定にも不都合を生じることはありません。
 従って、本論においてもその想定を取り入れることにします。
 すると、古人皇子は舒明大王が崩じた年に28歳だったことになります。626年生まれの中大兄皇子より一回り上でしたが、大王に立てられるには若すぎたようです。
 『紀』からの推定によれば、用明帝の即位は40歳くらい、推古帝は39歳、舒明帝は37歳、皇極帝は49歳、孝徳帝は50歳になります。
 新帝の即位は、当然先帝の崩御年齢や他の事情にもよりますが、35歳よりは上、40歳程度であるべきと考えられていたように思われます。中大兄皇子の称制(即位せずに大王としての政務を執ること)は36歳に始まり、他の複雑な事情が推測されますが、即位したのは43歳でした。
 推古四年(596年)生まれの軽皇子(孝徳大王)は即位前に、古人皇子が舒明大王の子であり「年長」であるという二つの理由で、古人皇子に王位を薦めたとされています。しかしこの「年長」は「(大王になれるほどすでに)長じた年」と解釈されるべきで、古人皇子が軽皇子より年上だったという意味ではなかったはずです。そのことばは、若年の大王即位がめずらしくなくなった『紀』編纂当時の、無念の死を遂げた古人に対する修辞だったと考えられ、そんなやりとりがあったことさえ疑問です。

 結果、皇子時代の天武天皇の言動が古人皇子を連想させるのは、「大海人皇子は目的と意思を持って、古人皇子にならって王位を辞退した」か、あるいは『紀』が「天武天皇は古人皇子と同種の人物だった」ことを暗示するための表現だった、と解釈する方が納得できることになるのです。
 ここから、天武天武は蘇我氏の皇子だったのではないか?という疑問が発生したのです。
 
「福の神?」
:神さまだって楽じゃない

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