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②大嘗祭と皇室祭祀 | 下に目次がなかったり開ききっていない 場合は「f5」キーを押してください。 |
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「蘇り」と言えば、天武天皇は大嘗祭(だいじょうさい)を初めて行ったことでも知られています。それは天皇が即位後に初めて神に新穀を捧げて、その霊を取り入れて蘇る意味を持つ祭式で、即位の儀と対を成す重要な儀礼です。 天皇の即位二年目以降は、やはりその年に穫れた新しい穀物を神前に供えますが、新嘗祭(にいなめさい)と称することになります。ただしこちらの起源は不明です。 「舒明紀」十一年(639年)正月条に、大王が有間(有馬)温泉に行っていたので遅らせて行なったのだろうという注釈付きで、新嘗を行なった記事がありますので、遅くともその前年以前から行われていたものと考えられます。そしてこれは現在11月23日の皇室行事になっており、「勤労感謝の日」の設定根拠になっています。蘇りを求めた天武天皇の姿が、今に伝わっているわけです。 大嘗祭も新嘗祭も、本来は太陽が子(ね。北)の極点から午(うま。南)に移り始める、冬至の日の祭祀でした。しかし天武天皇は、大嘗祭を二年(673年)の十二月一日の「壬申(みずのえうま)の日」まで遅らせました。 なぜなら、その二年前の十月の「壬申日」(十九日)に吉野への隠遁を強行しており、陰陽の占術において、「壬申の日」は「吉事を行うに吉日なり」また「出行に吉日なり」とされる、重要な日だったからです。 だから「壬申の乱」は、大海人皇子が生きている間の壬申の年に起さなければならなかったのです。
つまり『続紀』の記述と泉湧寺の位牌の謎は表裏一体のものだろう、というのがここでの推定です。 この推定を本論でここまで考証してきたことで補足すると、天武天皇はまちがいなく蘇我氏の本流に近い出身で、藤原氏から見れば、天智大王の子の大友皇子(弘文大王)から王位を簒奪して大王を自殺させた、大逆賊です。それに持統天皇から元正天皇までは母系で蘇我氏であり、聖武天皇から称徳天皇までは父系で蘇我氏に属します。つまり、およそ百年間にわたって称徳女帝で途絶えたいわゆる天武系天皇は、蘇我氏系天皇だったということになります。 蘇我系の軽(珂瑠)皇子(文武天皇)に初めて娘の宮子を配した不比等はそれ以後、父系では相変わらず蘇我氏だった天皇の母系を藤原氏に移すことで、一族台頭の礎(いしずえ)を築くことになりました。宮子については、不比等の実子ではなく養女とする、梅原猛氏の有力な説があります。 不比等はまた、蘇我氏が始めた女帝の擁立という方法を倣って、それまで蘇我氏が占めてきた皇室の筆頭外戚の地位を乗っ取ることに成功しました。 そしてその子孫は、鎌足が仕えて桓武につながる天智を除いて、父系も蘇我氏だった天皇に対する祭祀を取りやめて、無縁仏にしたことになると推定されるのです。 藤原氏が国記を管理し、一族の中臣氏が中臣神道で皇室祭祀を取り仕切ることで、皇室と蘇我氏系天皇の蘇りを断ち切ったのです。 しかし実質的に不比等が立てた聖武天皇(在位:724年~749年)の皇女で、光仁天皇の皇后になりながら廃后された井上内親王と、その子で太子を廃された他戸(おさべ)親王の事件など、平安初期の数々の陰湿で不可解な事件は、皇室に流れる蘇我氏の血統を断絶するために、不比等が薨じたあと、藤原氏が暗躍したことを見せつけています。井上内親王を后にしたのが志貴皇子ですから、それらの関係者が「御寺」に祀られていないことを説明できると同時に、天武系天皇も意識的に除外されたことが推定されることになるのです。 母系からすれば、天智大王にも蘇我氏の血が流れていました。しかしその弟とされる天武天皇は祭祀から除かれました。その理由は、天武天皇(漢皇子)は父(高向王)も母(宝皇女)も蘇我氏系だったという、「父系の論理」から明らかにされます。 平安期の祭祀が桓武天皇を初代にしていたら、天武天皇と7名の天武系天皇は浮き彫りにならなかったでしょう。『続紀』が天武天皇を天智大王と切り離したために、逆に天武天皇に対する疑問を解くヒントを増やすことになったのです。 |
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