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②用明大王の曾孫 | 下に目次がなかったり開ききっていない 場合は「f5」キーを押してください。 |
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(2016.01.31修正) 天武天皇が漢皇子ではなかったかという問題提起をされたのは大和岩雄(おおわいわお)氏(『古事記と天武天皇の謎』)ですが、高向王の父が田目皇子だったと解明できませんでした。また漢皇子を逆に天智大王と見る説もあるようですが、それでは蘇我氏に関係する高向王の名も、蘇我氏が作った用明大王から流れる天武天皇を取り巻く蘇我色も、理解することはできません。 いずれにしても本論におけるこれまでの数々の考証で、
漢皇子と田目皇子の系譜がここで解明されたことによって、天武天皇が用明大王の采女の血を引くのではなく、欽明大王の正当な玄孫であることが分かり、しかも母系では、馬子の姉妹だったことしかわからない蘇我石寸名の曾孫だったことが明らかになりました。 石寸名の血を引く天皇は蘇我氏内では初めてであり、『紀』からすればまったく異端の天皇だったことが浮かび上がったのです。 また別の結果として、「斉明紀」の奇妙な初文は、不比等が『紀』を天武天皇の子の舎人親王を通じて、不比等が立てたが天武天皇の血を引く元正天皇に撰上するために、当時の人たちには自明の天武天皇の出自に係る短文だけは残さざると得なかった、と推測できることになったのです。 だから、これは言い換えると、
そしてこの解釈によって、異質な天皇の性格や行動が関連付けられて納得できるようになったことが、重要なのです。 論証の方法論で言えば、最初に漢皇子=天武天皇を推定しておけば、その時点で「漢皇子=天智大王の異父兄」は確定していたわけですが、本論では状況証拠の積み重ねによって、同じ結論を得たわけです。他の項目についても、「逆もまた真なり」が成り立ちます。 またこの推理を補足すれば、父が違った大海人皇子と中(大兄)皇子は、恐らく大海人皇子が中央の飛鳥(豊浦)または摂津(大海氏の本拠地)あるいは河内(高向邑)で、中大兄皇子は葛城で育てられたものと考えられるのですが、養育地についても両者の対比ができないようになっています。
繰り返しますが、『紀』には高向王も田目皇子も漢皇子も、ただ一度しか記されません。なぜなら、『紀』は天武天皇の祖を明かしたくなかったからです。だから『紀』だけを熟読しても出自がわからなかったのです。 これは、三人を直結させないために取られた手法だと思われます。つまり、高向王の祖父を用明大王としながら父を伏せ、漢皇子の父母を明らかにしておきながら天武天皇と切り離して、天武天皇と田目皇子(多米王)がつながることを避けたかったからです。なぜなら、田目皇子の母は、これもただ一度しか記されない「蘇我石寸名」だったからです。 この『紀』の粗筋が作為的でなく操作もされていなかったとは、とても言えません。 これに関連して、『上宮聖徳法王帝説』と『上宮記』(逸文)が田目皇子と穴穂部間人皇女の子は佐富女王一人としていますので、高向王は田目皇子と穴穂部間人皇女以外の蘇我系の女性の間に生まれた可能性を示しています。この場合には佐富女王は高向王の異母妹だったことになります。本論ではこの立場を取ります。 それでも漢皇子が用明大王直系の曾孫であることに、変りはありません。 佐富女王については、その夫で泊瀬仲王とも記され泊瀬(はつせ)王は、厩戸皇子と菩岐々美郎女の間に生まれた皇子ですので、母系からすれば膳(かしわで)氏系です。田村皇子を擁立する蘇我蝦夷と山背大兄皇子を擁立する蝦夷の伯父の(境部)摩理勢が対立したときに、摩理勢が保護を求めた直後(628年)、恐らく蝦夷側の人間によって、毒殺されたと考えられています。そこで東漢氏が暗躍したとしても、蝦夷の命令があったのか独断だったのかは、推理のしようがありません。 雄略大王(在位:456年~479年)の幼名が大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)で、泊瀬王も同じく、倭の泊瀬(桜井市)に拠ったものと考えられます。なお雄略大王は倭の五王の「武」に比定される王で、稲荷山古墳(埼玉県)から1968年に出土した鉄剣の裏面に金象嵌で記された「獲加多支鹵大王」が「ワカタケル大王」とされて、古墳の出土品から実在が裏付けられた最古の大王になっています。 ちなみに泊瀬王の名前は天武期にも現れますので、これが長谷王につながる皇族だったと思われます。 また、佐富女王と泊瀬王との子に葛城王と多智奴女王がいたとされていますが、斉明大王の父と推定される茅渟王と同じく、多智奴の智奴は恐らく和泉国の茅渟(大阪府南部)に関係した名前だと思われます。 漢皇子に関わる諸説の中には、漢皇子を天智大王としたり、新羅の王族(金多遂)としたり(佐々克明氏)、また佐富女王がもうけた一男一女についても、葛城王を中大兄皇子と見て多智奴女王は間人皇女ととらえる向きもあるようですが、それらについては、人物の時代関係や背景と共に『紀』の裏に存在する流れを推測することから、再考を求めたいと思います。 |
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